ゆるり徒然、薄明かり

空想めいた日々。孤独の中にも光を探す。のんびりと日常や思考を綴るブログ。

ささくれと微笑

これは少し前に書いた文章なので、今の気持ちとはもう変わってしまっているかもしれない。でもせっかく書いたので載せる。

 

太宰を読んだ。何かしている間は少なくとも生きていられる。時間の中を雲が通り過ぎていった。弱ってる時に現代のものを読まないのは、自分と比べて疲れるからかもしれない。なるべく自分と関係ない世界、関係ない時代の話がいい。青空文庫は昔の本がタダでいっぱい読める。書いた人、電子化してくれた人に少しありがたいなと思った。

起きたら妙に背中を痛めていて、腰も最近なぜか痛い。あまりにも座りすぎなのかもしれない。いい若者が腰を押さえながらよたよたと立ち上がり、しじゅうアイタタタ、と言っている状況はとても情けなくて嫌だったけど滑稽でもあった。途中、背中が痛いことがなんだかおかしくなって、イタタとなりながらも口元に薄笑いが浮かんだ。腰が痛いことを笑えるかどうかみたいなのは、人生において結構重要なことかもしれない。

例えばこないだの大雨にしても、大人は濡れて不愉快そうにしていたけど、子供はむしろそれ自体を楽しそうに、自分からずぶ濡れになっているくらいだった。どうにもならない時に笑えることは強い。だって泣いてもどうにもならないんだから。

できたらこのまま何があっても滑稽さを見出して笑っていられたらいいけど、私はかなり悲観的なほうだし、不安定すぎるから、もしかしたらささくれが痛いみたいなことで急に不安になって泣き出すかもしれない。ささくれは比喩だから、その中にはどんな言葉を当てはめてもいい。それは体調の悪さかもしれないし、具体性のない不安さかもしれないし、抱えている障害のことかもしれない。もっとすごくすごくしょうもないことかもしれない。

その時はもうどうしょうもない。ささくれが痛いんじゃあ!と書き殴って捨てる。ささくれに対するありとあらゆる罵詈雑言を並べ立てる。ささくれと書かれた紙を午前三時に釘で打ち付ける。いっそのこと指を切り取ってささくれから逃れようとするかもしれない。そもそもささくれという概念を持たなければいいんじゃないかと日夜怪しげな自己暗示に勤しむ。時に勢いあまって人前でささくれの痛さを力説してしまうこともあるだろう。

頭の中の街頭。私はビールケースの上に立っている。普段はレジで「袋いりません」と言って3回聞き返されるほどのか細い声がその時はきっとよく通る。

私は拡声器を手に取る。ふざけるなと。なんでささくれのせいでこんなに痛い目に遭わなきゃいけないんだ。私だけがささくれでひどい思いをしているじゃないか。何をしてもどうにもならない。むしろ悪化さえする。どうしたらいいんだ。考えても分からん。助けてくれ。助けてくれ。助けてくれ。もちろんそんなこと、誰も聞いちゃいない。醜態だ。無意味だ。

自分の喉から出した言葉を自分の鼓膜に入れて、自分の中でぐるぐる循環させるだけだ。それは洗濯機みたいに私をむちゃくちゃのもみくちゃにして、すこしも綺麗にならず、もっと壊れた私が出てくる。もう何度繰り返したか分からない同じことを、どういうわけか私はいつも忘れてしまう。暑い日に寒い日のことが思い出せないように。

どうにもならない時にはもう滑稽さを見出して薄笑いする以外にきっとない。泣いたって怒ったって雷が落ちる時には落ちるし、死ぬ時は死ぬ。そんなこと思ったりもするけど、言葉でいくら言えたって達観なんかできません。私は子供です。きっと6歳くらいの子供です。その子が手に負えないので途方に暮れています。夕陽の落ちる河川敷を、疲れた顔しておんぶして、泣き止まないその子をあやしあやし歩いています。たまにもう川に投げ捨ててしまおうと思います。だけどなかなかできません。いい方にも悪い方にも思い切りが足りないのです。

願わくば、いつかささくれの痛さを笑えますように。